母校の沿革を読んでみると昭和18年7月1日から昭和25年4月1日までこの10年に満たない期間に様々な事があったことが想起されます。

昭和20年5月24日「戦災全焼」

大田区のこの地区にも空襲があり焼夷弾が落とされたのです。小林和子さん(1期生)が翌朝学校に行ったら焼け跡だったと話しておられました。黒柳美恵子さん(R24)は雪高生の課外授業「奉仕」で久が原にもB29が墜落したことを話されたそうです。

昭和22年4月1日東京都立雪谷高等女学校併設中学校を併設(2、3年のみ)

旧制度での教育制度は「複線式」といわれとても複雑なものでした。
小学校を卒業すると高等科、中学校、商業学校、工業学校、農学校、高等女学校等々に分かれ、中学校を終えたもののみが高等学校、大学予科、高等商業、高等工業等高等専門学校へと進み、大学に入ることが出来ました。
商業学校、工業学校、農学校等に進んだものは高等商業、高等工業、高等農林と限られ、大学もさらに限定されました。
女子は高等女学校を終えたもののみが、女子高等師範を始めとする高等専門学校(女子)に進む事が出来ましたが大学は原則として門戸が閉ざされていました。
当時の日本女子大学、東京女子大学は専門学校令に基づく高等専門学校です。

昭和22年6月10日大田区久が原町1200番地に独立校舎落成移転(開校記念日)

母校が、何故、久が原高校ではなく雪谷高校なのか、ここにも母校の永い歴史の一端が伺えます。

昭和23年4月1日東京都立雪谷新制高等学校と校名変更(中三4学級、高一4学級、高二2学級)

「新制」とあるのは旧制高等学校がまだ存在していたからです。旧制度下での高等学校は特別の存在で、高等学校を卒業したもののみが帝国大学に進むことが出来ました。

昭和24年3月31日旧制高女5年生卒業式(旧制高女最終回)

東京都立雪谷高等女学校は幕を閉じました。女学校時代の同窓会が六華会です。母校の同窓会が六華会蛍友会と併記されているのはこういう歴史があるのです。同窓会の役員欄に黒柳美恵子(六華会R24)、山腰良代(六華会R24)と紹介されているお二人は旧制高女最後の卒業生です。

昭和24年4月1日男女共学実施(男子50名、女子300名)

この年に入学された先輩達が3期生です。

昭和25年1月26日東京都立雪谷高等学校と校名変更

新制度の教育制度、「単線式」が名実ともに始まりました。

昭和25年3月24日新制高校第1回卒業式(女子50名)

year100-004-001小林和子さんは旧制高女を卒業後、3年に編入され第1回の卒業生となりました。写真は小林(旧姓青木)和子さんの卒業証書です。ちなみに編集子は昭和34年卒業(第10期)で第2696号、長女は平成6年卒業(第45期)で第17542号です。


このコメントはHP担当が書きましたが、百周年を2年後に控えて旧制や新制の先輩の皆さんに母校にまつわる思い出話を投稿いただければと思います。