100周年記念誌通信第3号 2011年9月9日 |
大平洋戦争末期、本校の前身である東京市立大森高等家政女学校の様子を伝えねばならない。昭和15年4月11日「大森区会が東調布高等家政女学校を、田園調布1丁目120番地(東調布第一尋常高等小学校内)から雪ケ谷町823番地に移転することを決議する。」ー大森区会決議報告綴ー(大田区市年表より)。校舎は現在の雪谷中学校の位置で、周囲は畑で人家もなく静かな田園の中に、真新しい白いペンキ塗りの木造二階建ての校舎が建った。新築当初の校舎を知る人も少なく、雪ケ谷駅で降りて町の人に聞いても知らない人が多かったという。 大正2年から28年間に及ぶ小学校との併設時代を終えて昭和16年に現在の雪ケ谷中学校の所在地へ独立の校舎と校庭をもつことができ、校名も東京市立大森高等家政女学校と改まり、さらに2年後には東京都立と改まることになる。しかし戦時下、この校舎もわずか4年間の命であった。写真で見る限り、校門から広い校庭をへだててコの字型に立つ木造2階の校舎は、学校以外の何ものでもない風情を讃え、実物を見たことのない我々にも懐かしさを感じさせてくれる。 この校舎が焼夷弾の雨に見舞われ瞬時にして燃え落ちるのを目のあたりにした時、あるいは翌朝、一夜にして消え失せた校舎の廃墟に立った時に、先生や生徒の気持ちは一体どんなであったのか。平和の世を生きている人間にとっては、もはや想像の域を超えていることは確かだろう。 昼も夜も連日空襲があり、生徒たちは連日「防衛宿直」をしたという。当時はたいへん辛かったと思うが、物資が無くなっていたが、かき集めて先生方と一緒に料理を作って食べるのがとても楽しい思い出となって残っているそうである。また生徒たちは勤労動員にかり出されたという。当時羽田にあった明電舎に行き、空襲がひどくなり、電車が通らないので歩いて行かれたそうだ。空襲がだんだんひどくなった昭和20年5月24日に校舎が総焼失したことになる。また食べるものがないからといって、校庭を麦畑やサツマイモ作りをしたそうだ。農耕時間にもっこを下げるのには、女子高生には抵抗があったという。 その後焼けていなかった「調布大塚国民学校」や次に「東調布第一国民学校」に世話になったが、つくづく居候というのは辛くて、先生・生徒も辛い体験をしたという。 焼失した校舎は屋根瓦が緑色に近く、実に女学校らしい校舎で、静かなロマンチックな印象のある学校だったという。焼失した校舎は、今の雪が谷中学の敷地内であった。 焼失した校舎建設の頃、校歌ができたという。さて,この当時の雪谷高校の校歌が見つかった。これは本校3期卒業生の加P倭司氏の努力によるものである。当時の歌詞を紹介しよう。 『東京市大森高等家政女校歌』 作詞:風巻 景次郎 1.多摩の廣野を吹く風の 明るく窓にささやけば 希望はわかし、ああわれ等 みなすこやかに胸を張り 学べばたのし、この命 我が学び舎も とはの栄を 2.春は並木の桜道 白亜の壁に蔭なげて み國にかをる、ああわれ等 みなしとやかに鏡なす 磨けばうれし、この心 わがよき友に とはの睦を 3.富士はけだかく神さびて 地平に白くかがよへば 理想もたかし、ああわれ等 みなかひがひし皇国の み民とはげむ、 このきほひ やまと少女に とはの誉を 新制高校となってからもこの校歌は歌い継がれたが、いかにも高等家政女学校らしい歌詞であり,その歌詞の文言からして、その一部が時代にそぐわない部分が見られたため、新たな校歌が制定されたと考えてよいだろう。少なくとも昭和27年3月以前の卒業生には上記の歌詞の校歌が新制高校となってもしばらくの間、校歌として親しまれた。そう考えると、80周年記念誌に掲載された『もう一つの校歌』のエピソードは誤りであるといわざるを得ない。本校の校歌の歴史は3度以上の変遷を戦後になってからたどって、現在の校歌「雪谷讃歌」といわれていたものに落ち着いた新たな校歌の歴史が潜んでいる。 戦時中、体育は非常に重視されたが特に武道まで織り込んで心身の鍛練のために、薙刀を課外に取り入れたのは女子高等学校らしい。可憐な乙女たちが城のはちまきをきりりとしめて、「エイヤー」とかけ声を勇ましく、前進、行進打ち込みと汗を流して鍛えられた姿は、運動会でも基本形を演じて満場の拍手をえたそうだ。太平洋戦争が盛んになると、兵器工場への動員も増え、19年春から4年生は東京計器・富士航空計器・三国商工とクラスが分かれて勤労動員に参加した。学校に行くの代わりに、工場に行って工員として勤労するわけだ。教員は1日の中を時間を割いては一室に集めて学科の授業をすることになっていたので、巡回講座を開いた。やはり生徒たちは、工場の仕事よりも授業の方がよいと見えて、講義に行くと目を輝かせていた。やがて半年後には3年生が明電舎・大同工業・高砂鉄工所に動員されることになった。動員先が6カ所となり、連絡等に非常に苦しんだ。生徒は夏休みも無く、未来対労働が多いので疲労度は強く、夏の暑い日には一日16名の欠席がでた。それでも励まし合いながら頑張り、幾度かの空襲にも現場の指導の良さで一人のけが人も出なかったことは幸甚であった。生徒は各工場に別れて一堂に集まることもなく、先生も志度のに困難を極めた。これでついに一学校一工場をモットーに、都の動員部と交渉を重ね工場とも交渉して了解を求めて、20年5月末に石川台の玉川電気に全部集まることになった。動員の思い出は尽きないが、学徒が青春の情熱を一途に集めて、国家に協力した純粋な姿は美しいものがあった。(元本校教諭・藤松 貢「思い出」前掲) |
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